どうも、すみとおる あお(@sumitoru_ao)です
色んなブロガーさんが自分の経歴を書いていたので
僕も真似して書いてみました!
とっても長いので時間があって興味のある方だけ読んでください
【幼少時代】
え、そこから!?
と思うかもしれませんが、まぁ見てってください
神奈川県の川崎市という町で生まれました
空気(物理)は悪いですがそこそこ栄えているところです
当時はなかったですが、今はラゾーナ川崎プラザという日本で3本の指に入る商業施設ができて、街並みもだいぶ変わりました
乗り物を見るのが好きで
しょっちゅう近くの駅に電車を見に行ったりしてました
乗ると吐くので乗るのは苦手でした
幼稚園が嫌いでいつも無理矢理自分を奮い立たせて幼稚園に通っていました
いろんな人と関わることの刺激が強すぎたんだと思います
よく笑う素直ないい子でした
反面サンタさんは信じない子でした
【小学生時代】
低学年 将棋を好きになる
病弱でよく風邪を引いてました
の割に公園でおにごっこやかくれおにをして遊んでいました
部屋で遊ぶゲームが少なかったからですね
ゲームを入手してからはほぼ毎日ゲームしてました
64のスマブラ、マリオカート、マリオパーティ、プレステのデジモンワールド...
ほんとゲームばっかやってたので親から時間制限を設けられたりもしました
当然隠れてやってました
あとは将棋をやり始めたのがこの時期ですね
1年生の誕生日に祖父から将棋盤のセットを買って貰ったのがきっかけです
時間があるときは父や祖父と将棋をしてました
4年生になる頃には父にも祖父にも簡単に勝てるようになりました
将棋は今でも大好きな遊びです
中学年 サンタさんを信じだす
この頃からサンタさんを急に信じ出します
畳の匂いを嗅いでサンタの侵入経路を炙り出そうとする素直ないい子でした
もちろん侵入経路はわかりません
3年生から少年野球を始めました
友達の誘いで町内の野球チームに誘われたからです
だけど自分に自信がなくて、いつも他人の出来や周りの評価を気にしてしまい、結局卒業するまでずっと野球そのものを楽しむことができませんでした
今考えるともっと楽しくやればよかったのになと
とてももったいなく感じます
高学年 本が好きになる
この辺りから急に好きなことに対して向き合うようになりました
学校のクラブでは将棋クラブに入ったり、朝早くからの百葉箱の観察や、放課後給食の残飯を使って肥料(EMぼかし)を作るなどする栽培委員に所属するなど、ちょっと変わったことでも好んで手をつけるようになりました
本が好きになったのもこの頃です
6年生になったあるとき、ふと教室の後ろに置いてある本棚の1冊の本に目が行きました。吸い寄せられたといった方が正しいかもしれません。オカルトでもなんでもなく、1冊だけ光って見えたのです
その本は『エジソン』でした
伝記です
この本が、僕が本を好きになるきっかけを与えてくれた本です
この出会いはのちの僕の人生を大きく変えてくれました
エジソンに感謝です
【中学生時代】
1年生 ハンドボールを始める
小学生のときやっていた野球とはここでスッパリ縁を切りました
ちゃんとスパイクシューズも買ったんですけどね(;;)
理由は『坊主(ハゲ)にするのが嫌だから』でした
今振り返ると思うのですが
坊主以外にもそもそも野球への思い入れがなかったことも
内心あったのだと思います
野球から足を洗い、ハンドボール部に所属しました
理由は友達がいっぱいいて面白そうだから、です。安易です
でも結局ハンドボールを僕は高校生になっても続けました
理由は楽しかったからです
2年生
勉強と部活に明け暮れました
ここでの記憶は本当に勉強と部活しかありません
テストでも友達と点数を競ってました
結果的に学年150人のうち8位の成績を納めることができました
3年生 たくさんの人に支えられる
2年に続き勉強と部活に明け暮れました
受験に差し掛かると僕は進学校に進むため、変わった受験の準備をしていました
それは『研究発表』です
自らが興味を持った題材を研究し、自らが表現しやすい形で表現をし、それを評価してもらうという受験スタイルです
僕は『環境問題とエネルギー』に着目し、模造紙7枚分の成果物を、丸3ヶ月程かけて、
本当に周りの人に支えられながら作ることができました
毎朝5時半に起き、7時前に登校して黙々と作業を進めていました
ときには先生に懇願して学校の解錠のパスワードを教えてもらい、職員の登校前6時とかに学校に行って作業したりもしました
(今考えるととても信頼してくれてたんだなと思います)
お陰さまで無事合格し、進学校に進むことができました
このエピソードを語るに当たっては、一冊の本ができるほどたくさんのドラマがありました
しかもこの頃、不登校の友人の家に毎朝迎えに行くことも並行して行っており、そのことも受験と深く関わります
5万字くらいになりそうなのでここでは割愛しますが、いずれ記事か何かにしたいなと考えています
【高校生時代】
1年生
晴れて進学校に進んだ僕は、とことん勉強詰めの毎日を送りました
僕の学科は3年間クラスが同じで、全員が進学のための勉強をしていました
授業は予習復習が大鉄則で、それをしないと実際授業についていくことができませんでした
そのため原則バイトも部活も禁止されていたのですが、どうしてもやりたいとお願いをして僕はハンドボール部に入部しながら勉強との両立を目指しました
でもそのことが僕の人生に大きく影響を及ぼします
2年生 うつ病になる
僕は2年の後半でうつ病を発症します
僕のクラスは朝7:30から授業があります。通称0時限目です
そのため起きるのは6:00くらいでした
朝はその時間に起きるのですが、夜はなんと2時に寝ます
これはただの夜更かしさんではなく、社畜並みの生活を送っていたからなのです
先程、予習復習があると書きましたが、この予習復習には最低でも3時間を要します
そのため、みんなは通常放課後に残ってそれをこなします
ところが僕はイレギュラーにも部活に入っています。16:00~20:00までが部活の時間になります
なのでだいたい家に帰るのが21:00。そこからご飯を食べて22:00。予習復習開始して終わるのが深夜1時。お風呂入ったりなんなりで結局寝るのが深夜2時になる仕組みです
そして朝は0時限目があるため6:00に起床という、1日4時間睡眠生活を半年以上も続けていました。その結果、冒頭のようにうつ病になってしまったのです
なぜそんな無理をしたかというと
ひとつ上の先輩にサイボーグみたいな人がいて、その人は僕と同じ学科でありながらハンドボール部でもエース張りの活躍をして、かつ勉強でもクラスのトップ層を維持し続けていました
その人が一日3時間睡眠で毎日生活していたので
『俺もそのくらいやらなきゃだめだ』
と勝手に目指してしまい、結果身体を壊したという顛末です
愚か の2文字です
この頃にはうつ病がかなり悪化し、国道に飛び込むなど自殺未遂を図ったこともありましたが、担任の先生に泣きながら励まされ、救われ、病院に通院し、3年生の後半になる頃には無事完治させることができました
実は同時期に胃潰瘍と慢性貧血も併発していて、人間が最低限必要なヘモグロビン値の3分の1にも満たない量で僕は生きていたようです。階段を2解まで上がることすら困難でしたので本当によっぽどでした。その状態で厳しい部活も槍続けていたのですが、本当よく生きてました
3年生
病気も完治し、あとは受験一直線!
というところでふと気付きます
勉強が全然わからない!
そう、うつ病だった半年間の記憶が全然ないのです
授業には参加したけれども内容を全く覚えておらず
理系なのにサイン?コサイン?って状態でした
そのため当初は40人中9位だった順位も一気に28位までがた落ち
そこから這い上がるための猛勉強の日々が始まりました
でも一人ではなく、周りの友人に本当に支えられました
その結果クラスで11位になれることができました。これは大きいです
平均偏差値でいうなら60くらいです
英語の偏差値なんか当初45とかだったのに
最終的には62まで引き上げることができました
第一志望の大学には落ちましたが、第2第3に受かることができ、無事進学しました
部活のハンドボールはうつ病の間はずっと休んでいましたが
治ってからは復帰しました
すると以前より身体が軽く感じ、とても動けるようになりました
そして練習をしまくっていたある日、漫画のような感覚を味わいました
シュートを打つ瞬間に
スローモーションでキーパーの動きが見えるようになったのです
僕自身が一番驚きました
それからはサイドシュートというコートの端っこから投げるシュートを打つと20本中18本は入るようになり、どんどんハンドボールが楽しくなってきました
楽しさがピークを迎えた頃に受験のタイミングも被り、引退をしました
【大学生時代】
経営学部に所属し4年間を過ごしました。
大学では軽音楽部という部活に入り、1度も弾いたことがないキーボードを担当。昔からずっと、大学に入ったらピアノがやりたかったのですが、ピアノ部というのがなかったため軽音楽を選んだというなんともイレギュラーな子です
大学生活はとてもアグレッシブに動き回り、オープンキャンパスを運営する組織の長になったり、ゼミ長になったり、部活でも役職を持ったり、大学側と学生側のトップが集まる会合にも参加したりと、たくさんの経験をしました
4年間活動的に動きましたが、就活で躓きました
というより就活中に倒れて入院することになりました
病名は『肺気胸』です
4年生の1月、すでに一社から内定を貰っていましたが研修でそこがブラックだったと知り辞退。新たな職場を探すべく奔走し、ようやく最終面接にありつけました。ところが最終面接当日、駅に向かう途中で突然背中に激痛が走りました。そして息も絶え絶えになりました。あまりに突然のことで僕は理解が出来ず、近くの交番(何故?)に助けを求めました。
おまわりさん「どうしたんですか!?」
胸を押さえうずくまる僕「・・・」
おまわりさん「う、撃たれたんですか!? え? ど、どうしたの!?」
そしてなぜかその時は自己判断で『肉離れ』と判断し、整骨院へ
当然治療の甲斐なく、傷みは治らないまま自宅に戻る
そして翌早朝、息ができずに起き、病院に運ばれ手術
3週間入院することになり、もちろん最終面接はオジャンに。予定されていた卒業旅行、卒業ライブ、その他の卒業イベントが全部無しになりました。目の前が真っ白になりました。すべて白紙になった気分です
そこからです
僕の生き方が変わったのは
もう二度と無理をすることを辞めようと
自分の身体を最優先に考える人生にしようと決めました
【社会人~そして現在】
大学卒業後|家業の不動産の仕事で最強の力を付ける
大学卒業後は家業である実家の不動産会社で元気(大嘘)に働いていました。(うつ病になったので元気とはいえません笑)
社長である父親があまり営業をがつがつするタイプではなく、新しいことに取り組むタイプでもなかったので、会社の経営状態は傾き気味でした。そこで、僕は新しい事業を作ろうと一念発起し、不動産という仕事の中でも法人・事業系不動産に特化した「テナントリーシング事業」を立ち上げました。
0からのスタートでしたが、結果的にそれが大正解!
僕一人で3年間で1500万円もの利益を上げることができました!
飛び込み営業を何百何千とし、紹介紹介でお客様と繋がり、未経験のため知識がなかったので国会図書館に行って様々な文献を調べながら契約書作成・日々の仕事に奔走していました。その結果、500社の取引先と繋がることが出来ました。世界的大手商業不動産リーシング会社との業務委託契約を勝ち取ることもできました。
0からスタートして利益を創出した経験は僕にとって大きな財産です。
今後、どんな仕事においても、未経験分野であっても、プロとしての成果をお客様にお出しできると確信できました。
家業を辞めて転職|そして転職|Webライターに
家業の不動産屋を約4年間勤め上げたあと、別の不動産会社に転職しました。理由は「給料が欲しかった」からです。
家業の不動産の仕事では、僕がいくら利益を出しても会社自体が火の車なので、すべてのお金は会社の養分になります。その結果、僕の手元に給料がやってくることはほとんどありませんでした。そのため転職を決意。
しかし、転職先の不動産屋を何と1ヶ月でやめるというDQNぶりを発揮。
理由は「なんとなく合わなかったから」というあいまいなもの。
今考えれば、うつ病の関係もあり、体調が芳しくなかったのも大きな要因だったと思います。
そして再度転職し、今現在(2018年3月)は医療系の会社でWebライターとして働いています。なお、雇用形態はアルバイトです。本当は正社員としてライターの仕事に就きたかったのですが、門戸がとても狭く、まずはアルバイトでもなんでもいいから書く仕事に携わろうと思い、アルバイトとして働くことにしました。
番外編|ブログを始めたきっかけ
自分が書くことが好きだと気付いたのがちょうど社会人になって1年目の頃で、漠然と書くことを生業にしたいと思うようになりました
ブログを始めたのはそれから3年後の2017年7月です
それまでの3年間は「小説を書きたいなー」とかくすぶっていたのですが全然前に進まないので、少しでもいいから書くことに触れよう、ということで手を付けたのがブログでした
結果的に大正解
ブログめちゃくちゃ楽しい!!!
僕に向いてると感じました
承認欲求満たされるし、達成感あるし、いろんな人と絡めるし、なにより書いてて楽しいし!
こんなものなんで今までやってこなかったんだろうと、逆に謎でした
長々と書きましたがこれが僕の淵源です!
読んでくれてありがとう!
おわり!
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